伊坂幸太郎「魔王」を読了。
兄貴のお話「魔王」と弟の妻の視点で描いた弟のお話「呼吸」と二部構成になっている。
「魔王」は怒涛のように過ぎ去っていくならば「呼吸」は緩やかに過ぎ去っていく。
そう遠い話じゃない。
流されるということは、無意識のうちに巨大な渦の一端を担っている。
全体主義の善悪を分けるのは指導者であって、小さな小さな分子に過ぎない自分は抗っても掻き消されてしまうだけ。
でも、抗ってみたいという欲求が、妄想を生み出す。
兄貴が発する言葉は能力だったのか妄想だったのか。
脳溢血で死んだ兄貴は殺されたのか病死したのか。
伊坂幸太郎の小説はいつもタイトルが隙をついて登場する。
「魔王」という具体的な言葉として登場したのは、シューベルトの「魔王」に出てくる子供と主人公が自分の心情を重ねた時だった。
読み手は「魔王」というタイトルを知っていて、その言葉が持つイメージをストーリーに介在させながら読み進めるので、シューベルトの登場には首根っこを掴まれた感じだった。
心地よいというより、やられたっていう感じ。
で、結局のところこのお話は「魔王」って何なのよというお話なんだと思う。
政治家の犬養だったのか、躍起になった自分の姿だったのか、人間を操る何かなのか。
シューベルトに出てくる魔王も実は様々な解釈がある。
魔王は父親だという解釈や、一般的なのは魔王=病気という解釈。
いずれにせよ、「魔王」という存在はとても抽象的で、人間よりも強い力を持った存在らしい。
だから、それに屈伏する者、抗う者、傷つけられる者がいる。
でも、抽象的であるからして、そいつは誰しもの中に存在する恐怖心やら何やらじゃないのか。
魔王は人の数だけいるのかもねん。